神には神の永遠がある。私には私の今がある。

――「今本位哲学派」創立宣言

著者:趙彦淇

一、もし「永遠の命への入場券」を渡されたら

ある日、誰かがあなたの前に現れ、真顔でこう言ったとしよう。

「永遠に生きられる場所があるんです」

なかなか魅力的な話だ。

しかし、少し冷静に考えれば、まず聞いておきたいことがいくつかあるのではないだろうか。

そこでは何ができるのか。自由に暮らせるのか。友達はいるのか。世界を探検し続けられるのか。退屈しないのか。飽きたら出ていけるのか。

何しろ、永遠とは週末旅行ではない。

家を一軒買うなら、間取りも周辺環境も権利関係も利用条件も調べるだろう。ところが「永遠の命」を勧められると、私たちは「永遠」という二文字ばかりに気を取られがちだ。

まるで、長く続きさえすれば、その生活は必ず素晴らしいものになるかのように。

しかし、百年の苦痛を一万年に延ばしたところで、それがより素晴らしい報酬に変わるわけではない。

同じように、たとえ数十年しか生きられなくても、そこに愛や友情、自由、何かを生み出す喜び、心に残る思い出があるなら、短いというだけで人生の価値が失われるわけではない。

人生の価値を決めるのは、その長さではなく、どう生きたかである。

これが、今本位哲学が最初に問いかける問題だ。

二、パスカルの賭けには、計算漏れがあるかもしれない

十七世紀のフランスの数学者・哲学者ブレーズ・パスカルは、有名な思考実験を提示した。

簡単に言えば、こういうことだ。

神を信じ、神が本当に存在すれば、永遠の幸福を得られるかもしれない。

神を信じても神が存在しなければ、失うのは有限の人生の一部にすぎない。

反対に、神を信じず、神が存在したなら、無限の報酬を失うかもしれない。

一見すると、検討する価値のある投資に思える。

しかし、経験のある投資家なら「利益は無限大」と書かれた話を見て、最初にするのは利益の大きさに感動することではなく、取引条件の確認だろう。

パスカルの賭けにも、確認すべき点が少なくともいくつかある。

第一に、どの神を信じるのか。

世界には多くの宗教があり、神、救い、死後の世界についての説明は必ずしも一致しない。複数の宗教が永遠への道を知っていると主張するなら、どこに賭ければよいのだろう。

第二に、信仰の負担は本当に小さいのか。

宗教は慰めや共同体、生きる意味をもたらすことがある。一方で、時間やお金、労力を費やし、一定の生活規範に従うことを求める場合もある。

そうした負担が必ずしも損失だとは限らない。それでも現実に存在する以上、「無限の報酬があるかもしれない」というだけで無視してよいものではない。

そして、最後に最も根本的な問いが残る。

たとえ永遠が実在するとしても、それが自分の望む暮らしだと、なぜ決めつけられるのか。

人々は天国が存在するかどうかをよく議論する。しかし、その前に確認すべきことは、案外語られない。

もし天国があるとして、そこでの規則に従って暮らしたいと、本当に思うだろうか。

永遠の命を望む人もいる。一方、まだ確かめられない未来と引き換えに、今持っている自由をすべて差し出したくない人もいるだろう。

これは永遠の否定ではない。人生の価値を真剣に計算するということだ。

当たるかどうかも確かでない宝くじのために、家財を全部売り払う必要はない。

三、神が存在するかどうかと、神が助けてくれるかどうかは別問題だ

神に対する人間の態度は、しばしば両極端に分かれる。

神は全能なのだから、何でも神に助けを求める人がいる。

反対に、神の働きを見たことがないから、神など存在しないと断言する人もいる。

しかし、この二つの判断の間には、広い余地がある。

人間の理解を超える知性が宇宙に存在するのか。

分からない。

宇宙を創造した神がいるのか。

それも分からない。

何かが存在する証拠がないことは、それが存在しない証拠と自動的に同じにはならない。だが、存在しないと証明できないからといって、それに依存する義務が生じるわけでもない。

身近な例で考えてみよう。

ある大富豪が莫大な資産を持ち、あなたは生活に困っている。その人には助ける能力があるかもしれない。しかし、助けるという申し出が一度もないのに、仕事をやめて毎日その家の門の前で待つだろうか。

富豪が存在するかどうかにかかわらず、自分の生活上の問題は解決しなければならない。

神に対しても、同じような態度を取ることができる。

祈ってもよい。奇跡を期待してもよい。宗教から心の力を得てもよい。

しかし、長い間願いがかなわなかったなら、その結果に照らして行動を見直す自由も認められるべきだ。期限のない待機を求められる筋合いはない。

ここには、区別しなければならない二つの論点がある。

祈りに期待どおりの答えがなかったことは、神が存在しない証明にはならない。

同じように、神が存在する可能性があることは、祈りで現実の問題が解決するという証明にもならない。

かなってもかなわなくても「約束は正しく果たされた」と説明できるなら、その約束を現実の判断材料として使うのは難しい。

説明はいくらでも続けられる。しかし、人間の時間には限りがある。

だから今本位哲学は、神を否定しなさいとは言わない。

ただ、現実の問題に直面したら、まず実際に取れる行動を探そうと提案する。

天上のことを研究し続けてもよい。ただし、地上の仕事は誰かが手を動かさなければ進まない。

四、大きな力があっても、崇拝に値するとは限らない

世界一の富豪が小さな食堂に入ってきたとしよう。

客は驚くかもしれない。写真を撮りたがる人もいれば、興奮して立ち上がる人もいるだろう。

だが、隅で麺を食べている普通の人には、そのまま食事を続ける自由もある。

その人が立ち上がらなかったところで、富豪の財産は一円も減らない。

そして、崇拝しなかったからといって、その人の人格的価値が下がるわけでもない。

財産は財産。権力は権力。崇拝は崇拝。

それぞれ別のものだ。

成功者の能力を評価してもよいし、経験から学んでもよい。助けられたなら感謝すればよい。だが、相手が強いというだけで頭を下げる義務はない。

古代ギリシャの哲学者ディオゲネスの逸話は、この点をよく表している。

古代の記録によれば、アレクサンドロス大王は日なたぼっこをしていたディオゲネスを訪ね、何か望みはないかと尋ねたという。

ディオゲネスは、おおむねこう答えたと伝えられる。

「少しどいてくれ。日が陰るから」

逸話の細部を完全に確かめることはできない。しかし、その哲学的な意味は明快だ。

権力者から何も求めていない人に対しては、権力も服従を迫る力を失う。

では、問題をもう一歩進めてみよう。

もし天地を創造する力を持つ存在がいたとして、その力だけを理由に、人間はそれを崇拝しなければならないのだろうか。

力の大きさだけから答えは導けない。

創造する能力は驚嘆に値する。善良さは称賛に値する。助けてもらったなら感謝に値する。

しかし、ある存在が無限の力を持つからといって、ほかの存在が自らの意志を手放さなければならないとは限らない。

強さは事実でありうる。崇拝は選択であるべきだ。

今本位哲学は、神や富豪や権威ある人物に反対する思想ではない。

反対するのは、力があるという事実だけで、他人に服従を要求してよいとする考え方だ。

五、孔子のために洗礼を受ける――でも、孔子は同意したのか?

もう一つ、興味深い宗教上の問いを考えてみよう。

末日聖徒イエス・キリスト教会には、「死者のための代理のバプテスマ」という特別な儀式がある。

簡単に言えば、生きている信者が神殿で、亡くなった人の代わりにバプテスマを受けることができる。

教会の教義によれば、亡くなった本人には霊界でその儀式を受け入れるか拒むかを選ぶ自由が残されている。したがって、代理の儀式を行うことは、本人に信仰を強制することではないと説明される。

この説明には、教会内部での神学的な根拠がある。

だが、そこから別の問いが生まれる。

もし誰かが、二千年以上前に亡くなった孔子のために代理の儀式をしようと決めたら、孔子自身はそれを望んだことがあるのだろうか。

当然、孔子はとうの昔に亡くなっており、直接答えてはくれない。

教会の説明に従えば、孔子にも霊界で選択する権利がある。

それでも、倫理上の問いは残る。

本人に断る権利があるからといって、他人が本人のために勝手に手続きを進める権利まで生まれるのか。

この二つは同じではない。

例えば、ある人が特定の生活習慣をとても健康的だと信じ、友人に何も聞かずに講座を申し込んだとする。

もちろん友人には断る権利がある。

だが、断れるという事実だけで、頼まれてもいない申し込みが適切だったことにはならない。

ここには、見落とされがちな原則がある。

善意は同意の代わりにならない。

心から相手のためだと思っていても、相手の意志を丸ごと代弁できるわけではない。

先祖についても同じだ。

先祖を愛し、しのび、家族の歴史を調べることと、先祖の名義で宗教上の手続きを決めることは別である。

歴史上の人物を敬うことも、その人物の同意を根拠なく代弁する理由にはならない。

今本位哲学は、一人ひとりに独自の思想と選択の権利があると考える。

助言してもよい。助けてもよい。正しいと信じる道を紹介してもよい。

しかし、自分が真理を知っていると思うだけで、他人の代わりに決める権利まで持ったつもりになってはならない。

人を尊重するとは、その人がすでに下した決断を尊重するだけではない。まだ誰にも委ねていない選択権をも尊重することだ。

六、永遠を決められないなら、せめて今日を真剣に決めよう

中国古代の思想家・荀子は、こう述べた。

「君子はその己に在る者を敬して、その天に在る者を慕わず」

考えさせられる言葉だ。

雨が降るかどうかを、人間が完全に決めることはできない。

しかし、雨が降る前に屋根を直すかどうかは決められる。

豊作になるかどうかには、さまざまな要因が関わる。

しかし、いつ種をまき、どう耕し、どう害虫を防ぐかは、人間の努力にかかっている。

二千年以上も前に、これほど現実を見据えた考え方があった。

現代社会にもそのまま通用する。

起業する人は、事業の成功を保証できない。

しかし、市場を調べ、コストを管理し、商品を改善し、販売方法を学ぶことはできる。

父親は、子どもが一生幸せでいると保証することはできない。

しかし、温かな家庭をつくり、教育の機会を支え、自立する力を育てることはできる。

自分が何歳まで生きられるか、正確に決められる人はいない。

だが、今手元にある時間をどう使うかは、真剣に考えられる。

これが今本位哲学の「今」の意味だ。

単に今日だけを楽しみ、明日を考えるなという話ではない。

むしろ逆だ。

本当に今を大切にする人こそ、未来を真剣に築こうとする。

今日働くのは、明日もっと多くの選択肢を持つためだ。

今日健康に気を配るのは、これから先も元気に暮らすためだ。

今日家族を大切にするのは、次に会えることが必ずしも保証されていないからだ。

未来は今の敵ではない。

未来は、今の行動によって生み出される。

今本位哲学が退けるのは、まだ確かめられず、保証もできず、直接手を打つこともできない未来のために、現に持っている人生を軽々しく犠牲にすることだ。

永遠が本当にあるなら、その時に向き合えばよい。

だが、今日の太陽はもう昇っている。

天国の天気予報が分かるまで、今日着る服も決められないというわけにはいかない。

七、人生の意味を証明するために、なぜ永遠が必要なのか

人間には少し奇妙な癖がある。

何かが長く続くと、それだけ価値が高いと思いがちだ。

千年残った建物は、普通の家より偉大に見える。

千年読み継がれた本は、今朝書かれた文章より重要に見える。

だが、長さは価値の唯一の尺度ではない。

四分間の歌が、一生忘れられないこともある。

見知らぬ人の数秒の親切が、誰かの運命を変えることもある。

子どもの笑顔は長くは続かないが、だからといって重要でなくなるわけではない。

家族との夕食は翌日には忘れられるかもしれない。それでも幸せな夜だったという事実は消えない。

すべての価値を永遠という物差しで測れば、多くの普通の人生は取るに足らないものに見えてしまう。

しかし、実際の暮らしはそうではない。

人が一生懸命働くのは、必ずしも何百年も残る偉業のためではない。

子どもに好きな靴を買ってあげたいだけかもしれないし、家族で外食したいだけかもしれない。

仕事で成功したいのも、必ずしも後世に名を残すためではない。

何かをつくることや問題を解決すること自体が、満足につながる場合もある。

こうした価値に、永遠の保証は要らない。

実際に起きたというだけで、それはすでに人生の一部なのだ。

だから今本位哲学は、こう考える。

現実の人生にある愛、幸福、自由、創造、責任、成長には、それ自体の価値がある。その意味を証明するために、永遠の報酬を必要とはしない。

宇宙がなぜ存在するのかを解き明かさなければ、おいしいご飯を食べる資格がないわけではない。

死後どこへ行くのか分からなければ、誰かを心から愛する資格がないわけでもない。

人生の意味は、生きる過程で少しずつ生み出すことができる。

必ずしも、より高い存在からあらかじめ指定される必要はない。

八、今本位哲学の六つの原則

ここまでの考え方を、六つの基本原則にまとめよう。

第一、分からないことは、分からないと認める。

神が存在してほしいからといって、存在すると決めつけない。神を見たことがないからといって、存在しえないと断言することもしない。

未知を探究するには勇気が要る。不確かさを認めるにも勇気が要る。

第二、自分でできることがあるなら、奇跡を待たない。

希望は持ってよい。ただし、希望を行動の代わりにしない。

困難に直面したら、まず実行でき、検証でき、改善できる方法を探す。

第三、強さは崇拝を要求する理由にならない。

富、権力、地位、さらには神性であっても、他人の意志を支配する権利を自動的に与えるものではない。

崇拝するなら、それは自由で心からの選択であるべきだ。

第四、他人の人生を勝手に決めない。

相手の独立した意志を尊重する。

善意からであっても、自分の信念を他人に押しつけてよいと思い込まない。

第五、幸福の価値を証明するのに、永遠は要らない。

愛、喜び、自由、創造、責任、成長には、それ自体に追求する価値がある。

短い人生は、意味のない人生ではない。

第六、今日の正しい認識も、明日には修正できるようにしておく。

新しい事実が、これまでの判断を変えることはある。

今本位哲学の目標は、永遠に正しいことではなく、真実に近づき続けることだ。

これら六つの原則は、人生の成功を保証するものではない。

そもそも世界に、そんな単純な保証書はない。

不確実な世界で、少しでも明晰に生き、自由に選び、自分の判断に責任を持つための指針なのである。

九、神には神の永遠がある。私には私の今がある。

もしかすると、神は本当に存在するのかもしれない。

宇宙の向こうには、まだ理解されていない世界があるのかもしれない。

死は、意識の終わりではないのかもしれない。

科学者、哲学者、神学者が、これからも探究する価値のある問いだ。

今本位哲学は、その探究をやめようとは言わない。

宗教に反対する思想でもない。

祈りたい人は、祈り続ければよい。

永遠を信じる人は、それを追い求めればよい。

信仰によって慰めや幸福を得る人には、そう生きる権利がある。

同時に、神が存在するかどうか確信できず、奇跡に頼ることを望まず、自分の人生を自分で動かしたい人にも、筋の通った生き方の哲学があってよい。

宗教的な信仰がないからといって、人生には別の証明書が必要なのだと思う必要はない。

将来あるかもしれない幸福を求めるために、すでに手にしている人生を否定する必要もない。

この世界には、やる価値のあることがまだ山ほどある。

読み終えていない本、まだ訪れていない場所、完成していない仕事がある。

大切にしたい家族がいて、これから出会う友人がいる。

取り返したい失敗も、向き合える後悔も、今まさに生まれている幸せもある。

それらは歴史に残るほど大きなことではないかもしれない。だが、一人の人生を形づくっているのは、まさにそうしたことだ。

人類は永遠について問い続けてよい。

しかし、永遠を問い続けるあまり、今日どう生きるかを忘れてはならない。

星空を見上げてもよい。ただし、足元の道も忘れずにいたい。

天国を夢見てもよい。ただし、今いる世界をおろそかにする必要はない。

永遠が自分のものになるかどうかは分からない。けれど、今日の人生を自分自身のものにする努力はできる。

この考え方に基づき、ここに正式に提唱する。

今本位哲学派

それは神の否定を出発点とせず、宗教への反対を使命とせず、永遠の追求を究極の目的ともしない。

知的な誠実さ、現実への優先的な取り組み、個人の自主性、他者の意志の尊重、そして実際に生きる人生そのものの価値を大切にする。

未知の余地を残し、希望の余地も残す。

それでも、まだ果たされていない約束のために、人間の人生をいつまでも宙づりにはしない。

すべての人に同じ生き方を求めるものではない。

ただ、一つのことを主張する。

誰もが、自分の人生をどう生きるかを自分で決める自由を持つべきだ。

神が存在するか、永遠が実在するか。その問いは、これからも議論すればよい。

明日、新しい答えが見つかるかもしれない。

だが、今日の太陽は、もう昇っている。

人生は続いていく。

今本位哲学派・創立宣言

神には神の永遠がある。私には私の今がある。

趙彦淇

今本位哲学派 創始者

2026年10月14日